生月のキリシタン
〜中編〜

平戸市切支丹墓地
籠手田安経死後の生月

 天正8年(1582年)父、籠手田安経の跡を引き継いだ、籠手田栄は父程の権力はなく平戸松浦市の松浦隆信のキリスト教嫌いも相まって生月島におけるキリスト教保護も一時期程の力がなくなっていった。

日野江城跡
天正遣欧使節団

 一方長崎をイエズス会に寄進した大村純忠やその実家であり島原の大名で茂木を寄進した有馬晴信は住民全てをキリシタンとする勢いで、長崎は『東洋の小ローマ』と歌われるキリシタン王国となった。有馬氏の居城日野江城下には日本人伝道師の育成を目指し有馬セミナリオが建設され、大村・有馬と豊後の大名大友宗鱗などはヴァリニャーノ神父の先導で伊東マンショ・千々石ミゲルらとバチカンに向け有名な天正遣欧使節団を派遣し、元亀元年(1570年)2〜3万人程であった日本のキリスト教徒は使節団が帰国した天正8年(1590年)には24万人にまで膨れ上がっていた。

秀吉の伴天連追放令

 天正15年(1587年)天下統一を成し遂げた時の権力者豊臣秀吉はイエズス会日本準管区長のガスパル コエリョと九州征伐の折に福岡で対面した。そのとき秀吉はコエリョにポルトガル船(黒船・南蛮船)への乗船を希望し、その時平戸に停泊していたポルトガル貿易船を博多湾に呼び寄せようとした。しかし船長のドミンゴス モンテイロは博多湾の水深の浅さを憂慮して入港を拒否した。秀吉は理解を示したように見えたが、翌日の天正15年(1587年)6月20日

 日本は神国であり南蛮国の邪法を拒否する
 仏法の破壊者である宣教師達は20以内に日本から退去せよ

という主旨の勅状を発行した。これが続に言うバテレン追放令である。

宣教師の潜伏

 しかし、この伴天連追放令は空手形であった。司祭達の退去期限が余りにも現実的でなく、また一部地域にしか伝達も行かず、イエズス会は一旦宣教師達を平戸に集めた後、形式上一部をマカオに戻したのみで多くの司祭達が潜伏し、後に朝鮮侵略等の関連もあり影を潜め道端で公然とキリスト教の布教が続いた。

26聖人殉教の碑 長崎市-芸術新潮2000年10月号より抜粋

26聖人の殉教

 1591年(天正19年)土佐に漂着したスペイン船サン フェリーぺ号の船長マチヤスが『キリスト教の普及はイベリアの世界征服の一貫である』という主旨の発言から大坂・京などで24人の司祭や信者が捕らえられ後に2人を加えて長崎まで引き回され磔にされるという『26聖人殉教事件』が起った。

平戸宣教師毒殺事件

 話は戻る。天正18年から文碌2年から文碌5年(1590年〜93年)カリヨニ フランシスコ、テオドラ マルテル、ガスパル ジョルジ、フラネット ジョセフ、アンドレ デオロなど平戸在住の宣教師が相次いで毒殺される事件が相次いでおこっていた。

籠手田・一部氏の追放

 当時大量のキリスト教信者を抱えていた平戸松浦家は九州征伐の折所領6万5千石を安堵されていたが豊臣家への忠誠の証を求められていた。藩内はキリスト教派と反キリスト教派に別れ対応に苦慮していた。

 慶長4年(1599年)父松浦隆信の死により家督をついだ子の鎮信は父の葬儀に対し次のような号令を発した。

『父、松浦隆信の葬儀を仏式にて執行するに際し、宗派をとわずたとえ切支丹集にしても全ての者の参加を強要する。もしこれに従わないものある時は国外に追放すべきこと』

 これは実質、キリスト教の信者に対して棄教を強制するものであったという。これに反発した籠手田氏と一部氏は領地を捨て住民600人とともに生月を去っていく。籠手田氏450年・一部氏400年の土地を捨てたのである。そして籠手田氏と一部氏は長崎に向かったが上陸できず大村に身を寄せた。天正遣欧使節団の随行から戻っていたヴァリニャーノ神父など宣教師達は彼等の庇護に奔走し資財を投じて彼等の食事や住宅、ほか教会・学校などを提供し2カ年に渡り養護した。

松浦家隠居所の生月

 平戸藩主松浦鎮信は一転温厚策にて望もうとしたが更に200名が国内を去っていき、ついに心のより所であった教会を破壊し籠手田・一部氏の居城は破壊された。そして自らの隠居地を生月に定め修善寺を建立、 慶長19年(1614年)他界した。

 籠手田栄は細川氏の客分となり筑前黒田長政に仕え慶長19年(1614年)長崎にて殉教した。また一部氏は薩摩で客分として迎えられそこで他界したらしい。

江戸幕府伴天連追放令

 江戸幕府を開いた徳川家康はポルトガルとの貿易を熱望し、当初はキリスト教の布教に対して寛大であった。朱印船制度を創設して貿易の円滑化をすすめ慶長8年にはイエズス会に5000両の補助金を提供した。宣教師たちは関東地方まで進出し江戸・駿府にまで教会を建立することが出来た。
 しかし慶長17年(1612年)大御所徳川家康はキリスト教の布教を禁止するのであった。これによりイエズス会は86もの教会や駐在所を失い、スペイン系の教団は僅かを覗いて壊滅的打撃を受けてしまった。翌慶長18年(1613年)家康は大村純忠の子で元切支丹であった喜前を駿府に呼び寄せキリシタン禁制の方法を聴取した。そして同年末宣教師追放令が発布された(伴天連追放令)。しかしイエズス会などはこれも一時的なものになると考え数多くの宣教師たちが潜伏した。その中には後に棄教し沢野忠庵と名乗ったクリストバル フェレイラも含まれていた。宣教師達の潜伏先となっていた島原日野江城主の有馬直純は日向延岡に移封される。

生月の殉教者

 このころ生月でもキリシタン弾圧は制裁を極めていった。ガスパル様・だんじく様などのちに生月における信仰の対象となる主立った人物が次々と処刑されていく。(伝承編参照)

密航

 大御所家康が他界した翌年元和2年(1616年)将軍秀忠はさらにいっそう厳しい切支丹禁制を開始した。南蛮船の寄港地を平戸と長崎に制限し、ことにポルトガル船は長崎の人工島の出島に限定した。(ポルトガル船出入り禁止後の寛永18年(1641年)に平戸にあったオランダ商館が移される)しかし日本における布教熱はかえって増し、殉教地として日本を選んだ宣教師達が次々と密航し元和元年(1615年)から寛永20年(1643年)間での密航宣教師は101人にも及んだ。その中には遠藤周作の『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルとなったジュセッペ キャラ(棄教して岡田三右衛門と名乗った)などもいた。

〜明治以降〜


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