中野竹子殉節の碑

会津藩主・松平容保の義姉・照姫が越後街道坂下へ立ち退いたと聞いて、その守護を使命とした婦女子らが後を追う。
しかしそれは誤報で照姫は城内にいると知り引き返すが、会津若松北西部柳橋(涙橋)のたもとで長州兵と激突。婦女入り乱れての奮戦となるが、娘子隊の隊長的存在であった中野竹子が額に弾丸を受け重傷を負い、妹・優子が介錯。壮絶な戦死を遂げる。
中野竹子は20歳、介錯した優子は16歳の若さであった。
今は桜の木の横に、きらめくなぎなたをかまえた勇ましい竹子の像がたっている。看板・碑・竹子像あり。

戦死の地は国道49号線高瀬交差点南下、左側。
柳橋は国道49号線高瀬交差点南下、七日町通りとの交差点。

中野竹子の墓は会津坂下町法界寺。「小竹女子の墓」


アルバム「中野竹子」

竹子の像
正面から
記念碑
説明
柳橋(涙橋)
記念碑
柳橋から竹子戦死
の地方面を望む
柳橋欄干 なよたけ橋から
竹子戦死の地方面
なぎなたに結ばれていたという竹子辞世の句
  


女性ながら得意のなぎなたで戦う竹子さんが亡くなった地には、大きなどんぐりが沢山落ちていました。
竹子さん達、後の娘子隊とも言われた女性達の勇気と切ない義の思いが沢山詰まっているようにも思えました。


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